死についてのすべて
現実の美しい景色について、最近はほとんど書いていない気がする。たいてい書くのは、頭の中を一瞬よぎる思いのことだ。今日は死について話したい。
死に対する最初の印象を、私は覚えていない。覚えている人のほうが少ないのではないだろうか。生まれて間もない頃、死はあまりに遠く、他人の人生を理解する力もまだ足りない。ぼんやりと死を感じ取れるようになる頃には、もう特定の瞬間が強い印象として残ることもない。
私は生活に満足していない。自分の生活を意識して見つめ、感情を感じ取るようになってからずっと、生活は本当にひどいものだと思ってきた。今でも時々そう思う。昨夜も、今朝も、心の中では何かが、すべて終わってほしいと絶えず祈っていた。数えてみれば、ちょうど十年になる。
十年前、授業の合間に教室を出て、外を眺めるのが好きだった。もっと遠く、この世界の外側にある場所まで見たいと思っていた。その頃、一粒の種がまかれ、芽を出した。私にとって生活は、何が起こるかわからない地獄だった。片方の私はさまざまな「誘惑」にさらされ、その甘さを味わう。もう片方の私は、不確かな裁きを受け、自分が楽しんだことへの賞罰や、次の機会があるかどうかを決められる。
宗教に出てくる、あの醜い悪魔たちの誘惑は、本当に人を地獄へ引きずり込むのだろうか。悪魔は神の姿を装って人を欺く、と言う人がいる。だから人々は正すための罰を定めた。でも、その罰は神を悪魔のように思わせる。恐怖の中で生きることを、喜ぶべきことや当たり前のことだとは思えない。後でどれほど多くを約束されても、今を無視することはできない。だから、少なくとも私には、自殺そのものを悪いことだとは思えない。それは一つの選択であり、拒絶の仕方でもある。
拒まれたあらゆる生き方や行いも、実はふさわしいものなのだ。世の中のすべては、意識していてもいなくても、私たちが作り上げたものだ。起こったことのどれか一つでも、私たちと無関係だと言い切れるだろうか。
話が逸れただろうか。とにかく、ここに残りたくない時が多い。世界はあまりにも混沌としている。私はある時はこちら側にいて、次にはあちら側にいる。恨みながら愛し、責めながら哀れむ。もう本当にうんざりだ。自分の中にいるいくつもの私がぶつかり合うことにも、世界の果てしない混乱にも、もう疲れた。未練もほとんどない。今の私に、いったい何を惜しめるだろう。責任が私をここに引き留める。それは乾いた土地に降る小雨のようだ。でも私の肌はとっくにひび割れている。もう、いっそ終わらせてほしい。
この身体の中で、この時間の中で、すべてが決まっているような因果の世界で、もう一秒も過ごしたくない。「私はこの世界を愛している。穏やかで静かな時もあれば、風が荒れ、波が押し寄せる時もある、この気まぐれな海を愛している」と誰かが言う。そんなの、くそくらえだ。誰が言ったとしても。もちろん、あなたはそう言ってもいい。私と話しているのなら、私たちは共にここにいるのだから。それでも私は悪態をつきたい。その言葉がひどく間違っていると感じるからなのか、変化を受け入れたがらない自分に向けてなのか。やっぱり、くそくらえだ。
私はまだ理性を保ちすぎている気がする。夜中にもなっていない。だから、今日の少し前に言ったことをここに引いておく。そうしないと、私の半分だけが書いているように感じる。
疲れた、疲れた、疲れた。生きるのは疲れる。生きながら半分死んでいるような感覚だ。暮らしを変え、プロフィールを変え、思いつく限りの新しい選択をしてきた。以前は、それで生活が変わるかもしれないと思っていた。今は想像するのも面倒だ。私の生活は本当につまらなくて、退屈で、何の張り合いもない。そうとしか言えないけれど、それだけでは足りない。少しも好きではない。ただこのまま過ごし、いつか世界を去る。それだけなのだろう。
もうわけがわからない。何もかも壊してしまいたい。なぜ、なぜ生活はこんなに混沌としているのだろう。あちこちへ行き、いろんな人に会い、何かを始めたり終わらせたりしても、私の生活はずっとこのままなのはなぜ? なぜ映画の中やほかの人には転機が訪れるの? なぜ神はほかの人には話しかけるの? なぜ答えをくれるのに、毎日混乱の中で推測し続けさせるの? 本当に疲れた。ひどく崩れ落ちたと思ったら、急に気分が戻ることもある。そして一本の電話でまた崩れる。疲れた。息が詰まるようだ。わかるだろうか、この窒息するような感じが。終わりも、抜け道も見えない。
以前は、生活の中で答えの出ないことに向き合う時、この世界を去ればすべて終わる、と考えて自分を慰めることもあった。今はその慰めさえない。自分は去らないし、去れないとわかっているから。何を言えばいいのか、少しわからなくなった。ああ。
こんなことを考えるべきではないのかもしれない。でも止められない。魂が肉体の中にいないように感じる。何も感じられない。自分の世界の中から、自分の目を通して世界を見る時、何もない。実際、死を考えたことがある。実行しようとしたこともある。それなのに、なぜ私はまだここにいるのだろう。ある責任が私を引き留めているのだと思う。まあ、これ以上は恥ずかしくて書けない。誰も見ていないとわかっていても、書きたくない。
私には変える力があるのかもしれない。でも、変わりたくも、努力したくもない。ただ世界が滅びてしまえばいいという思いを抱いている。つらい。なぜなのかわからない。ほかにも、どう言えばいいのかわからない。死ぬのはひどく見苦しいことになりそうだ。もし人生に、ただ消えるためのボタンがあれば、世界から突然たくさんの人がいなくなると思う。死はとても重大なことで、人は変わることも望まない。だから半分生き、半分死んだまま過ごす。死ぬのにも、よい方法はないように思える。
まだ一日も経っていないなんて、信じられない。夕方、道を歩きながら、壁に貼りたい言葉を思いついた。「自分で選んだ生活を、揺るがずに生きる」。もっと正確に言えば、「自分が経験したい生活を、揺るがずに選ぶ」。それ以外に道はないから。目の前にある選択肢は、片方が正解で片方が間違い、片方が少しよくてもう片方が少し悪い、というだけのものではない。この力は、間違いを除いていくことよりも強く、あらゆる否定よりも強い。私も選ばなければならない。
自分の選択に対して「どれでもいい」とは、決して言ってはならない。自分が望むものを、はっきりと意識して選ぶ。そして、その結果を引き受け、自分の求める答えを得る。それが私の生活の真理であり、本当の生活だ。そう、それで十分だ。十分なのだ。空っぽでも、虚無でも、まだ落ち込んでいても、私はそうする。