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kept.place

何かを書くこと、そして欠乏の心理について

数週間前から、仕事のことを書こうと思っていた。どんなことをして、何を学んだのか。それから、GPT-3.5からOpus 5.5まで、AIを使ってきて感じたこと、そして私の世界でのAIの発展について、一つの文章にしたいと思っている。

まずは昨日の宿題を片付けよう。今は十時。少なくとも三十分は書くつもりで、思いつくままに書いていく。そのあとは瞑想するか、とりとめもなく考え事をする。これからもこうしよう。これが欠乏の心理に打ち勝つための第一歩だ。

私の生活には、いつもある種の切迫感、欠乏の感覚がある。結局のところ、生活のあらゆる瞬間が次の目的のためにあるように見える。だから期限が近づくにつれて、今は今のためにあるのではなく、未来のせいで追い立てられるようになる。

時間とは不思議なもので、人類の文明全体の礎だ。けれどよく考えてみると、時間は存在しないことに気づく。それは空間の中の運動に寄りかかった錯覚にすぎない。錯覚は強力な武器だ。人類がここまで来られたのは、さまざまな錯覚をみんなで信じてきたからでもある。けれど、信じるほど強くなり、強くなるほどさらに信じる。かつての幻想は忘れられるうちに少しずつ真実になり、最後には本物の嘘になった。そして私はその嘘の下で生きている。

「将来のために、今日必死に頑張らなければならない」。この言葉自体は間違っていない。でも、今日のうちに将来の準備をたくさんしなければならず、気づけば深夜になっている。何もかも今日に押し込もうとして、今日はすべて明日のために存在し、急にものすごい熱意が湧いてくる。こういうことは本当に怖い。その裏返しとして、娯楽の時間も一分たりとも無駄にしたくない。仕事のあとや休みの日には、楽しみながら同時に勉強したり、何か役に立つことをしたりしたくなる。

どちらもたいてい、いい結果にはならない。前者は、その間にちゃんと取り組めるかどうかはさておき、たとえやったとしても続かない。よくわからない。翌日にはもうやりたくなくなるのかもしれない。出発点がそもそも偽りの未来だったからかもしれないし、昨日が疲れすぎていて、未来のために今をすべて捨ててしまったと気づいたからかもしれない。とにかく、こういうやり方はあまりいい気分ではない。後者はもっと単純で、休む時間も遊ぶ時間も、まるで足りない。この瞬間がいつまでも続けばいいのにと思う。すっかり短期主義者になってしまった。

時間を思いどおりにしたい。今日を目いっぱい埋め尽くしたい。私の世界に明日はない、はは。これも一種の、今を生きる暮らしなのかもしれない。これが欠乏の心理がもたらすものだ。欠乏しているから、限られた時間でできることは全部やらなければならない。欠乏しているから、今日すべてを注ぎ込んで、明日には見返りを見たい。欠乏しているから、一瞬の退屈にも耐えられず、すぐに何か面白いことに飛び込まなければならない。

でも、これは本当のことではない。退屈は大切だと思う。何もすることがないのは大切だ。明日があると知っていることは大切だ。そうしてはじめて、プレッシャーの少ない中で、自分の興味や願いを少しずつ探してみることができる。そうしてはじめて、一歩ずつ目標に近づいていく自分が見える。そうしてはじめて……。欠乏のせいで無意識のうちに時間をやり過ごし、生活はつまらないと感じてしまうのではなく。

今日はここまでにしよう。完璧な文章はいらない。今日やるべきことのリストもいらない。これが言いたかったこと、書きたかったことだ。いくつかは明日に回して、今を生きよう。

私たちの目から見れば、世界は永遠ではないだろうか。私たちの生活は果樹とは違って、秋も春もない。だから、信じすぎないように。